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1783
徳川宗睦、藩校として明倫堂を起こし、細井平洲を挙げて総裁とする。
5月1日開校、一般に開放し、庶民教育を行った。 -
1891
明倫堂の号を廃し、単に学校という。
明倫堂聖堂は売却されたが、明倫堂の命脈は「明倫堂」の額と共に武揚学校に受けつがれ、明治32年さらに明倫中学校設立に直結するのである。武揚学校の歴史については資料不明。 -
1899
私立明倫中学校設立の件文部大臣より認可。校主徳川義礼。
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1900
4月1日名古屋市東区東白壁町に開校。初代校長海部昂蔵。
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1903
本校校舎全部新築落成。記念式典と大運動会を催す。明倫1号発刊。
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1904
日比野寛校長就任。校旗拝戴記念式。
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1908
校主、徳川義親。
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1909
私立明倫中学校設立の件文部大臣より認可。校主徳川義礼。 千葉良祐校長就任。校主邸内の博物館及び分科植物園、花園の3所、本校所属となる。
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1910
森本清蔵校長就任。皇太子殿下、とくに明倫中学に台臨。明倫会を前津東郊園に開く。
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1917
土屋員安校長就任。
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1918
小幡ヶ原、猫ヶ洞で兎狩はじまる。
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1919
本校愛知県へ移管の趣、認可せらる。愛知県立明倫中学校と改称。
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1921
創立記念式を行う。武術進級証書授与。校友会運動部競技。
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1925
安達貞太校長就任。
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1929
校舎新築落成。記念行事。
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1932
織田円城校長就任。
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1937
国民精神作興に関する詔書奉読式。
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1937
国民精神作興に関する詔書奉読式。
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1939
青少年学徒に勅語。
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1943
明倫56号出版。これをもつて「明倫」はついに廃刊となった。この年学徒出陣。
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1944
5月頃から各学年とも勤労動員に参加。
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1945
木造校舎2棟、剣道場、柔道場、記念館など戦災にあう。本館のみは生徒の防護班の決死の活躍によってからくもまぬがれた。葵文庫図書、野田文庫洋書、重要書籍は救われた(3月18日)。 この年、4年生5年生同時に卒業(3月)。8月15日終戦。9月勤労動員解除。全学年学窓にもどる。
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1947
来年度より新制中学校発足のため、22年度は生徒募集せず。
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1948
4月学制の改革により、愛知県立明倫高等学校と改称。新3年は同高校の併設中学校3年となる。 学校統合により、9月30日をもって愛知県立明倫高等学校は廃校。
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1903
名古屋市南武平町仮校舎にて開校。愛知県立高等女学校と命名。修業年限、本科4年、技芸専修科2年。杉浦要太郎初代校長就任。
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1905
同窓会和楽会発足。補習科設置。(修業年限1年)
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1907
鵜飼金三郎校長就任。本校生徒440名となる。
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1908
技芸専修科修業年限を3ヶ年に改定。校友誌「あゆち」第1号発刊。
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1910
校歌、校章を制定。12月1日校舎新築落成式を挙行。
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1911
修業年限4ヶ年の実科を設置。技芸専修科募集せず。校旗制定。
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1913
技芸専修科を廃止。
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1915
愛知県立第一高等女学校と改称。(同時に愛知県立第二高等女学校設立)
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1920
本年度より実科を募集せず、本科1学級を増募。9月、小林庸吉校長就任。
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1922
補習科を廃止。修業年限3ヶ年の専攻科を設ける。 4月より、本科の修業年限を5ヶ年に変更。 5月より愛知県第一高等女学校と改称。(県下公立中学校一律に「立」の文字削除)
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1924
4月より修業年限3ヶ年の高等科を設置。(後、昭和11年に修業年限を2ヶ年に変更)
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1925
この年より専攻科募集停止。
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1927
生徒定員本科20学級1,000名、高等科3学級120名と定める。勅使来校(木下侍従)。
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1928
創立25周年記念祝賀会を行う。プール竣工。
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1930
世界女子オリンピック出場の村岡選手壮行会。
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1931
長谷川栄校長就任。修業年限1ヶ年の補習科を再設置。
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1938
日米弓道競技大会優勝。(米メリーランド州ハーガスタウン高女と通信競技)
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1943
堀勝次郎校長就任。3月校友会誌「あゆち」40号発刊をもって休刊。
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1944
山崎敏夫校長就任。5月頃より各学年勤労動員に参加。
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1945
武平町校舎、3月12日空襲により一切廃墟に帰す。本部を市立第一高女の一部に置き、県立聾学校に分散授業。但し殆ど動員中。 3月28日、4年生・5年生同時に卒業。
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1946
市立高女の松操会館にて戦後第1回の同窓会幹事会・和楽会の全財産を学校に寄付。 「あゆち会」結成。
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1947
新制中学発足のため、22年度は生徒募集せず。6月校舎再建、木造2階建て2棟。
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1948
2月、「和楽会館」竣工。4月、学制改革のより愛知県立第一女子高等学校と改称。 新3年は同校併設中学2年となる。6月遠藤慎一校長就任。学校統合により9月30日、廃校。
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1948
10月1日、学校統合により、明倫、県一両校が統合、名古屋市東区西二葉町1-5に愛知県立明和高等学校が設立された。
校歌に出てくる『双葉が丘』とはこれに由来すると思われる。栗山卓士校長就任。 -
1949
地域別学区制が全学年にしかれ、全日制は職員、生徒の大部分がそれぞれ移動、転学した。全日制には普通課程、商業課程、家庭課程を設置。学区は北区の全部、東区、中区の一部と西春日井郡楠村となった。生徒自治会発足。3月31日併設中学校廃止。5月20日同窓会統合し明和会発会式。
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1950
音楽課程新設。音楽課程の学区は全県。修学旅行復活。生徒自治会が役員選挙法間接制に。
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1951
体育大会と文化祭を合併した現行の形態による学校祭開かる。
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1952
上記形態による学校祭禁止、体育祭のみ実施(文化祭はクラブ発表会に)。石田雄一校長就任。
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1953
商業課程の募集停止。生徒自治会を廃し、生徒会発足、直接選挙制になった。
クラブ活動を生徒会に移管、1年生のクラブ全員加入を生徒会議会決議。
以後生徒会の体制は大筋において変わらず、今日にひきつづいている。 -
1954
家庭課程の募集停止。明和・旭丘・瑞陵間で「三校リーグ」始まる。
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1955
校歌制定。深尾須磨子作詞、中田喜直作曲。
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1956
名古屋市及び尾張部一円が普通科の学区となる。
生徒会報第1号発行。文化祭再開。 -
1957
普通課程の学区が尾張部となる。現行の各種常任委員会の形態が整う。
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1959
クラスマッチ開始。「三校リーグ」廃止。
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1961
クラブ紹介開始。
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1962
鶴賀伊奈夫校長就任。
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1963
生徒会誌「明和」創刊、生徒会誌編集委員会設置。この頃より戦後のベビー・ブームの影響で生徒数急増す。
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1968
藤野源次校長就任。明光館竣工。これまでの校舎、体育館等諸施設の新設、増改築と合わせ、本校校舎はほぼ現在の姿になった。
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1971
中沢鉱三校長就任。
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1973
学校群制度施行により愛知県立中村高校と第6群、愛知県立松蔭高校と第7群を組む。
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1976
山根正資校長就任。
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1980
橋本正一校長就任。学校祭委員会(学校祭準備委員会・学校祭実行委員会)の設置。
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1981
「夏の公演」第32回から生徒会主催になった。
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1982
市岡邦男校長就任。
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1983
明倫堂開学二百年記念碑設置。
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1986
明倫堂開学二百年記念碑設置。
複合選抜方式(第二群・Aグループ)による新入試制度を採用、普通科にも推薦入学を実施。
坂田正英校長就任。 -
1989
学校群制度廃止。複合選抜入試始まる。
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1990
生徒会会則等の規約大改正、現行規約となる。
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1991
音楽科創立40周年記念式並びに記念演奏会を行う。PTA教育振興基金によりブロンズ像(石田武至先生制作)を建立。
「夏の公演」に代わり、「冬の公演」開始。 -
1993
吉田武校長就任。
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1997
高橋邦肇校長就任。
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1998
明和高校創立50周年記念行事。
明倫中学校、愛知県第一高等女学校、明和高校の校歌碑設置。
明倫中学校跡記念碑設置(東橦木公園)。
生徒会ホームページ開設。 -
1999
音楽科創立50周年記念事業として、県芸術劇場コンサートホールにて記念演奏会開催。
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2000
渡邉安祥校長就任。
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2003
佐藤順彦校長就任。
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2007
寺田志郎校長就任。
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2008
小林誠氏(昭和38年卒)ノーベル物理学賞受賞。
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2009
小林誠氏ノーベル物理学賞受賞記念講演、記念碑設置。
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2010
音楽科創立60周年記念行事(ピアノリサイタル)。
久保芳孝校長就任。 -
2011
文部科学省よりスーパーサイエンスハイスクールに指定される。
福島県立安積高校生徒会との交流開始。 -
2014
オーストラリアのボーカムヒルズ高校との交流始まる。
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2015
イギリスのウェストミンスター校との交流始まる。
若山和彦校長就任。 -
2017
文部科学省よりスーパーサイエンスハイスクール第Ⅱ期に指定される。
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2018
荻原哲哉校長就任。
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2020
木村誠校長就任。
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2022
小島寿文校長就任。
文部科学省よりスーパーサイエンスハイスクール第Ⅲ期に指定される。 -
2024
栗木晴久校長就任。
たしかに明和にも多くの伝統が受け継がれてはいるが、その当たりから説明を始めるとなると時代背景を事細かに説明せねばならず、本文が冗長になるのを避けたいがためである。
明倫、県一の足跡は沿革を参照していただくことにして割愛させていただく。
ところで、現在の明和には元気がないのではないだろうか?
部活では健闘しているにもかかわらず、である。なぜなのだろう?
進学率がこのところ頭打ちだからだろうか?たしかに躍進の途上にあると言えるわけではないが、伝統的に進学校の地位を保ってきているはずなのである。なぜだろう?
一種の「倦怠期」ではないかと思う。言葉が悪ければ「停滞期」と言い換えても良い。お祭り騒ぎの後の気分にも似たあの感じである。
バブル後の日本がそうであるように「発展」の果てには必ず「停滞」がめぐってくるという大きな循環があるのではないだろうか?
そして日本の経済状況同様「ほっておいても必ず上向く」というものではないのでは?
実はそんな危惧がこの連載企画の根底にはあるのだ。
明和を美化しすぎてもいけないが、正しい認識を持つ事は必要である。妙に醒めた感じが流れる現在の状況を打破するためにも過去を知ることが必要ではないか、と思う。
過去を知り、現在を見つめ、未来を想う。その一助となるページを作っていきたい、と思う。
アメリカの学期制度を導入したわけではなく、愛知県立明倫高等学校(明倫)と愛知県立第一女子高等学校(県一)の統合によって誕生したからである。
当時、愛知県立高はほとんどすべてが統合されて誕生しているのだ。旭丘も、瑞陵も、向陽も例外ではない。
これはGHQの占領政策の一環として行われた事であるから、日本の敗戦なくして明和はなかったということも皮肉な真理ではある。
明倫は尾張の藩校「明倫堂」として天明3年(1783年)に誕生しているから、長い歴史を誇る伝統校である。
藩士育成を目指す藩校であるから、当然男子校であった。明倫堂は後に徳川家の経営する私立となり、さらに大正時代には愛知県立に戻るという変遷を遂げている。
それに対して県一は明治36年(1903年)に「学制」の発布という時代の流れから誕生した。
私立の清流女学校、金城女学校に次いで3番目の、県立としては初の女学校である。
そんなまったく異なる流れの2校が「男女共学」「学校水準の均一化」というGHQの方針によって統合されたのである。
さて、「統合」とはどのようなことであったか。制度上2校を1校にしたのであるが、校舎を1つにするという事はどちらかが引っ越すということである。
明和の場合、明倫が県一に「婿入り」という形で引っ越しを行った。それも明倫の生徒が自ら机などを運び込んで、である。
授業は、というと共学になったのに教室が足りるわけもなく女子の授業と男子の授業というように1日を前後半に分けていたのだから統合の弊害も甚だしい。
「明和」の校名の成立は一筋縄ではいかない。新校名を決定する際、生徒・職員から募集して明和・明光・明成・名北・双陵・柏葉の6つに絞られ、これを全校投票にて「明和」に決定した。その登録の際、GHQ担当者には「明倫堂」の「明」と県一の同窓会「和楽会」の「和」で「明和」と説明したのだが、「これまでの校名とはまったく異なった校名でなくてはならない」と却下され、「明朗親和」から「明和」だと説明してようやく承認されたという経緯がある。
これで「明倫」+「県一」=「明和」となったと思いきや、実はそうではない。昭和24年度(1949年度)にはGHQの改革第2弾「学区制」がスタートするのである。
私立色の濃かった誕生当時の明和に学区制を適用すると、遠方から登校していた生徒は転校ということになる。これで1,550人のうち970人が転校してしまったのである。
かくして明和はいきなり「新生」を遂げてしまった。授業内容も完全に男女共学となり、しかもコース選択授業なのである。
学年により4~10の授業コースが選べたというからうらやましい。こんな授業形式が続いていたら、と考えてしまう。逆にいえばホームルームが成立しないことになるが。
さて、余談になってしまうがこのころの教師陣は若い。46人の先生の中に20代が12人、30代が18人である。 校長ですら45歳である。きっと現在の教師陣の平均年齢より若い。この激変を乗りきる力の源は「若さ」であったのだろう。
悪く言うつもりはないが、まったく現在の明和とは対照的である。たしかに現在の明和も十分に若々しいとは思うが。
また、現在も続いている「二期制」もこの昭和24年度に始まっている。
当時の校長がアメリカの教育制度を手本にしたとか、そういうことなのだろうか。記録はなにもない。
明和の誕生は紆余曲折をはらみながらもうまくいった、といえるだろう。9月に突如統合して4月からは普通の授業が行えたのだから行政のやることにしては迅速である。
戦後日本の急速な復興とオーバーラップしているのかもしれない。
昭和25年(1950年)には学区再編後初の卒業生が出ている。受験を勝ちぬいてきたわけでもないのに進学率はいきなり高い。
225人のうち名大57人、東大3人、京大2人、慶大3人である。「学校水準の均一化」を目指した統合でどうしてこんなことになるのか。
名大の合格者数でいうなら他の県立校をすべて差し置いている。すでに進学校の伝統は始まっていたといって良いだろう。
昭和25年度(1950年度)に音楽科が併設される。名古屋市立の菊里の音楽科に並ぶ形で県の教育委員会が明和に音楽科をという決定を下したものらしい。
しかし、普通科ですら教室不足に陥っていたのに増築が間に合うはずもなく、あらゆる特別教室を普通教室として使用して間に合わせたそうである。
増築の新校舎が完成するのはその年の10月になってからであり、それを記念するためにわざわざ学校祭を1ヶ月ずらしたと思われる記録がある。
主要な部活はすでに活動を活発化させていた。
陸上部、体操部、水泳部、山岳部(現トレッキング部)、蹴球部(現サッカー部)、ラグビー部、排球部(現バレーボール部)、篭球部(現バスケットボール部)、送球部(現ハンドボール部)などは創立以来の歴史を誇っている。
黎明期にすでに現在の形態をほとんど完成させていたとは、調べてみて初めて知った事実である。まだまだ長い校史には意外な発見が詰まっていることだろう。
復活というのはもちろん、明和は明倫、県一の流れを汲むもの、という意識が強いからこう呼ばれたのである。
この頃はまだ3年生の9月実施というずいぶんのんびりしたものだった。
小田原、箱根、鎌倉、東京と2泊のわりには色々とめぐっている。
このころはまだ東海道線は電化されておらず、蒸気機関車で東京-大阪間が9時間もかかった頃の話だから、かなり強行的な日程といえるだろう。
実際に名古屋から夜行に乗って小田原に朝着いているのだから。
さて、戦後の混乱期を抜けて発展へと向かい始めると、海外に追いつけとばかりに勉強熱が高まってくる。
昭和26年度(1951年度)は明和にとっても勉強熱の入り始めた年である。
この年、普通科7組のうち2組に「職業コース」という名がつけられ、進学志望と就職志望にきっぱりと分けてしまってより競争意識を高めようという試みが始まった。
さらに普通科では授業前と授業後の1時間に希望者のみの補習授業を始め、夏休みには3年生を対象とした夏季講習も実施した。
話は変わるが、当時の日本の原動力には朝鮮戦争の勃発による特需が挙げられる。工業や経済が発展する一方、共産主義が伸展して世相の雲行きが怪しくなり始めた。
昭和27年(1952年)に独立を回復した日本政府は不穏な世相を正すため、破壊活動防止法などの制定と同時に労働法規の改正にも乗り出す。
ところがこれが労働組合の反発をあおり、全国的なストライキへと発展していった。
労働争議と共産主義が結びついて、行動はさらに過激化。共産党代議士の街頭演説に端を発した「大須事件」は労働者・学生と警官隊との衝突となり、火炎瓶と威嚇射撃の応酬となった。最終的に射殺者1名、逮捕者269名を出し、逮捕者には明和生十数名も含まれていたのである。
新聞で「明和高校生逮捕」と報道されたが、教師の嘆願が実って起訴は免れた。この事件後も明和で学生運動が活発することはなかったという。
「教師不信」「生徒不信」の風潮に流されない明和の姿がそこにはあった。
このころ戦前のベビーブームの影響から大学志望者が5年前の4倍にまで増えた。
そのため受験倍率は格段に上がり、国立大学受験者には浪人覚悟が迫られ「6・3・3・X・4制」と言われるほどだった。
といってもその後も同じ状況がずっと続いているので、現在の状況になった、というほうが正しいだろうか。
そんななか、あいかわらず学区制で受験せずに入学できるにもかかわらず明和の卒業生は飛躍的に進学成績を伸ばしていった。
そこで方針を変え改めて昭和30年度(1955年度)、制作委員会は童謡作家としても名の知れた中田喜直氏に作曲を依頼して快諾をいただき、学校側の同意を得た。
同氏の推薦で作詞は詩人、深尾須磨子氏にお願いした。
こうして両氏に学校を視察していただいてその印象を元にして現在の校歌が誕生し、10月28日には校歌の披露が行われたのだった。
昭和31年度(1956年度)には停止されていた文化祭が復活する。さらにこの年、修学旅行は3泊4日となって奈良、神戸、高松、広島となった。
これは確実に現在の修学旅行より規模が大きい。
昭和33年度(1958年度)には新校舎の建設が始まる。そして昭和34年度(1959年度)の9月になって内装工事が始まり、10月3日の竣工式を待つばかりとなったが、9月26日には伊勢湾台風が襲来したのである。竣工式は自粛して規模を縮小して行われた。
教員、生徒の被害も甚大だった。幸い死者は出なかったが、家屋全半壊など被災者は267名に上り、学校祭は全面的に自粛、中止へと追いこまれた。
こんな昔語りになってしまったことが本当に当時の明和では行われていたのである。
現在でもその状況に何ら変わりはないはずだが、テストは熾烈な戦いと化していたのである。
その掲示が廃止されたのが昭和35年度(1960年度)のことであった。この時点で廃止されたことに、現在の僕らは感謝すべきだろう。
またこの年には現在の「新入生歓迎会」の原型とも言うべき「部活動紹介」なるものがスタートしている。
この年の紹介は持ち時間1分で、非常に不評だった。そこで翌年は運動部の公開練習と、文化部の展示発表ということになったのだが、これにも反省が起きた。
そして文化部、運動部と2日に分けて持ち時間5分、という形式が昭和37年度(1962年度)から定着したようである。
ご存知かと思うが、日米安保条約改正を強行する政府に対して日本全土がデモに沸き返った年である。
このデモは突発的に起こったわけではない。すでに前年より各種の反対運動が徐々にエスカレートしてきていたのだ。
そんななかで当時の校長は高校生への影響を予見し「静かに批判の目を持ちながら自己を見失わないで」と呼びかけている。
結局、デモの引き金を引いたのは政府自身だった。5月20日未明、500人の警官を動員して安保改正反対を訴える野党議員を議場から排除し、衆議院本会議で新条約の採決を強行するという荒業に出たのだ。
この報は瞬く間に全国をかけめぐった。そして翌26日の国会前は実に170万人ものデモ参加者が取り巻いたのである。
この過激な反対運動が、全国の高校生にも影響を与えた。もちろん、明和とて例外ではなかった。
国会前でデモが行われたその日、デモへの参加を呼びかける校内放送が流れたのだ。これに慌てて学校側は自粛を求める放送を行った。
安保改正の余波は続く。6月4日には全国各地で総勢560万人に及ぶ反対集会が開かれ、各地の交通機関や商店は安保反対の意思を示してストライキに突入し、混乱を極めた。
この日の明和は安保反対の意思を示す歌を歌うという、「歌う会」が強行的に行われ、多数の生徒が参加したと記録されている。この集会は後に、校内での「安保反対演説」に発展してゆく。
「下校後には良識ある行動を」という指導がなされたが、現実には多くの生徒がデモに加わった。
参加が発覚した生徒には指導部教員との話し合いが持たれたが、強硬に反対する意思を曲げる者はなかったという。
実際、明和生の中にはデモを主導する立場に立っているものもいたと見られている。
しかし、明和生のデモ参加がニュースで報道されたのを期に過激な行動は沈静化に向かい、静かな抗議行動に切り替わっていった。
そんななか、ついに6月15日には全国580万人が抗議行動に参加、この日学生等7,000人が国会突入を決行して警官隊や右翼団体との衝突となり、遂に学生の死者を出した。
6月19日に改正案が承認、可決されると全国的な抗議も沈静化し、校内での抗議行動もやがて余韻を残して日常へと復旧し始めたのである。
翌38年2月23日に竣工式が行われ、多数の来賓が集った。その席で明和館と呼ばれることが決められた。
竣工式の式典後には、音楽科生徒たちが、体育館竣工頌歌「よろこびはわれらのここに」を合唱し花を添えた。
柿落としの行事として三菱電機VS安城女子短大のバスケットボール試合が行われた。
明和館の完成は文化・体育各種行事にもたらす効果は絶大で、その恩恵は現にわれわれも享受しているところである。
昭和43年には一階部が柔道場・剣道場、二階部がプールである明光館が完成した。当時としてはかなり珍しい構造であったらしい(今でも珍しいのだが)。その後、早速、水泳同好会がクラブに昇格し、水泳・柔道・剣道の三部はこの明光館に部室を得た。
その年、愛知県教育長の仲谷義明氏は県立学校長会議の席で「教育に政治的中立性」について述べ、生徒の政治的参加を厳しく戒めるように注意を喚起した。
この年、上半期の政治活動による高校生の逮捕者は全国で94校の144人に上った。
愛知県でも、10月5日の日曜日に愛知県教育大学グランドにおいて、「全愛知高校生決起集会」が機動隊と各高校の指導部関係員の見守る中で開かれ、約80名の生徒が、この集会場に当初予定されていた旭丘高校を経由して栄近くまでデモ行進をした。
2日後の7日の朝、学校祭の開会式がはじめられると、生徒会長を先頭に、これをボイコットした生徒たちがロータリーに出て集会を開き、学校祭の幕が開かれる事となった。
ボイコット集会は10日の体育祭まで続いた。また、学校祭ボイコット派が誕生したために、体育祭の実行委員会の組織は崩壊し、運営に支障をきたし盛り上がりを欠いた。
このため、10月23日に約束されていた学校最後の集会が開かれたが、学校祭に水を差したことへの批判と学校祭の意義を問わなければならないとする弁明で議論が白熱した。
また、25日には再度集会が開かれ、話題は学校祭の意義から教育体制批判、高校生の政治活動の問題に移り、午後にまで及び、そのため、午後からは有志討論会に切り替えて、なおも約500人が残りそれに参加した。この日の集会では、学校側が、「校則違反の場合は、父兄の呼び出しや処分もあるが、デモへの参加だけで、退学・停学処分にすることは考えていない。」と答弁したことが注目を集めた。
※学校群制度とは
学区制の枠内で学校格差を緩和しようとしてとられた高校入試の改善策。
各学区に複数校を組み合わせた学校群を数個おき、受験生に特定校ではなく学校群単位で志望させ、合格者を郡内の各校に成績順に均等に配分する制度。
この制度の導入によって、各校において入学者の学力差が広がり、入学後には個性的な生徒も目立つことになった。
こうした結果は学校群制度が発表された時点で予想されていたことであったが、校内では旧制度の教員・生徒の中には、「明和はこれで終わりだ」と思う人たちがいた。
また、この群制度で入学してきた生徒を「第二明和生」と呼んだ人たちもいた。
このようにして入学してきた新しい明和生にふさわしい指導方針が打ち出されねばならなかったが、教員の意識改革は容易ではなかった。
教員の大規模な異動があったが、伝統校の体質は変わらなかった。転入教員との融合は容易ではなく、新しい制度への対応に遅れをとった。
進学状況は年を追って振るわなくなり、ついに昭和53年には東大合格者も0となり、学校群制度の内容を知らない先輩の卒業生から「東大への灯を消すとは何事だ」とお叱りの言葉が飛び出すにいたるのである。